日経BP社出版の「企業永続の法則」に掲載されました

2006年5月 8日

リスクを予測し海に生きる

徳川家康が駿河田中(現藤枝市)の城で、鯛の天麩羅を食べて具合が悪くなったのは、元和2年(1616)の正月21日のこととされているが、この時食べた鯛は焼津の浜で水揚げされたものである可能性が高い。

というのも、田中の城番にしてみれば、大御所様御立ち寄りということで、領内の名産を厳選吟味して食膳に供したに違いないし、そうだとすれば田中の領内で既に漁業の盛んであった焼津海岸のどこかしらから、活魚を仕入れるのが自然だからである。現にその前々年の、慶長19年(1614)4月13日には、焼津浦に上がった初鰹二尾が家康に献上された記録が残っている。

この時家康の食べた鯛が腐っていたということは考えにくい。産地から近いわけだし、時期も真冬である。天麩羅にした時に使った榧の油が古くなっていたか、異物が混入していたかによって食当りした可能性が濃厚である。

家康が食当りして具合が悪くなった時、田中の城番は真っ青になったに違いない。そして賄方役人や鯛を納めた漁師も同様である。場合によっては、いかなる仕置きも覚悟しなければならなかっただろう。 この時の漁師の中に、武田水軍の遺臣であったと伝えられる福一漁業近藤家の祖先がいたかどうかはわからない。そして、この一件で漁師まで累が及んだという記録もない。

静岡県焼津市で鮪延縄、海外旋網を中心に、鮪鰹を漁獲対象として遠洋漁業を営む福一漁業は、江戸時代初期にその創業の起源を持つ企業である。

現在の社長近藤一成が13代、初代は寛永から正徳にかけて生きた人である。ただ、近藤家が鰹婦ねを何時から所有してきたのかについて、はっきり記録に残っているのは、北新田村半四郎(6代目)の名のある、安永7年(1778)の「漁猟運上御請証文之事」という文書で、持船の名をナンバンといったことが記されている。

江戸時代、焼津浜で魚撈に従事していたのは、鰯ヶ島、城之腰、北新田の三ヵ村であった。(以下主に『焼津漁業史』焼津漁業協同組合編・1964による)

この三ヵ村の漁師たちは、主として鰹漁を成業とし、江戸時代を通じて20数隻の鰹船が認められていた。当時は浜ごとに主たる漁場と持っていい船数がそれぞれ定められていた。一方、操業が認められるということは、それに伴う義務も果たさねばならないということで、毎年運上金を連帯して支払わなければならなかったし、漁期や漁法、水揚げした漁獲物の販売に至るまで、一定の制限に則って行う義務を負っていた。

豊穣の海「駿河湾」

このうち運上は、「水五才」あるいは「五斉」「御菜」などとも呼ばれていたが、先に挙げた「運上御請証文」がまさに当時の三ヵ村合わせて23の船持が連帯して運上を支払うことを約束したもので、この時から運上は検見法ではなく、年二十七両二分を上納する定免法となっている。鰹船の船持は一人一船が決まりであったから、この課税は鰹船一船ごとに一両を原則とし、差額は鰹以外の漁獲に対するものと考えられている。

漁期や漁法などの定めとしては、天保12年(1841)の「猟方申合定法之事」という仲間規約が残っている。

これによれば、鰹漁及び餌鰯漁は3月から9月までとする。それ以外の鮪漁、手繰網漁、底釣漁などは、裏作として10月から2月までのみ可能とする。置網量は全面禁止とするなどの条件が定められ、最後に「もし右掟相そむき候者これ有候はば漁猟かせぎ37日の間休日きっと致すべく候」と、違反者には3×7=21日間の出漁禁止を定めている。

では彼らはどのような船に乗って出漁していったのか。

焼津市中港にある福一漁業の本社の中に「なんばん記念館」という資料館があり、そこにこの鰹船の模型が展示してある。もちろん木造で、船底に航という厚い板を置き、これに外板を継ぎ合わせた典型的な和船構造をしている。帆は三本、舳先に一本(剣帆)、中央に一本(矢帆)、そして艫先(大帆)、これが前の二本を合わせたより大きい。前の二本は主として方向を定め、艫の一本は推力を得る役割を持っていたのであろう。

左右の船端に四本ずつ櫓がしつらえられている。従来の漁船は多く七挺櫓であったものが、焼津の鰹船に限って八挺櫓(法度櫓)が認められたのは、家康が久能山へ渡船する際、焼津の船がすべて警護のために随伴した折の功によるものだという。そして舳先を黒く塗っていたので黒水良押と呼ばれていた。

幅はおよそ8~10尺(約2.4~3メートル)、長さは45~50尺(約13.6~15.2メートル)で、これは明治初期の寸法で、江戸時代にはもう少し小さめであったと考えられている。

そのような船に10人から14人ほどが乗り組んでいた。彼らが長い一本竿で次から次へと鰹を釣り揚げる情景は、さぞ勇壮なものであったろう。

漁場は主として駿河湾内であったが、時に遠く伊豆の石廊崎あたりまで出漁していたようである。それより沖に出るのは極めて危険であった。遠州灘の沖には黒瀬川(黒潮)が流れていて、ひとたびそこへ押し流されると漂流のおそれがあったからである。

それでも当時の駿河湾内は、豊穣の海であった。

年によって回遊時期が多少違っていたようだが、春3月下旬以降の半年間は、鰹の大群が押し寄せ、時に海が盛り上がって見える時もあったという。また鮪は、季節によって回遊してくる種類が違い、春4月~4月はメジマグロ、8月~9月にはクロマグロ・キワダマグロ、冬の寒くなった頃にはシビマグロが取れた。

漁獲した鰹・鮪は三村それぞれの浜に揚げ、魚商人が買付をする習しになっていた。しかし中には油売りする者も跡を絶たなかった。油売りすれば、価格の10分の1程度であったという課税を免れることができたからである。これは漁方にも漁商人にもメリットがあった。ただ江戸も後期以降となると、漁獲高に関係なく年間一定額の納税をすれば、定められた浜に水揚げして浜役人の検分を受ける必要がなくなった。それが安永7年の「運上御請証文」である。

われ敵機動部隊を発見せり

明治を迎え世の中が大きく変化する中で、焼津漁業もその変化に対応して大きく変わっていった。船の大型化、発動機付漁船の導入、後に焼玉エンジンへの転換、漁場の新開拓、鉄道(東海道線)の敷設による市場の拡大、漁船の氷使用など。このうち漁場については、大正末年頃までに、東は金華山沖から西は薩摩南諸島、台湾近海まで、南はマリアナ群島辺りまで広がっていた。焼津は遠洋漁業の基地となっていったのである。そして近藤家福一漁業も、その発展と歩を一にしていた。

焼津の遠洋漁業は、昭和30年代に最盛期を迎えるが、『福一漁業史』(福一漁業編・1987)を読んでいて、これだけは外せぬと思った近藤家の悲劇を記しておきたい。

それは戦時中、近藤家の第五福一丸が徴用され、敵軍の監視活動に従事したことである。そしてこの第五福一丸は米軍の硫黄島上陸の前日、即ち昭和20年2月18日、「われ敵機動部隊を発見せり」と第一報を打電した後、敵艦隊に撃沈されたのである。本船には、第11代近藤松一が搭乗しており、乗組員ともども船と運命を供にした。今の社長近藤さんの伯父に当たる人である。

江戸時代の史料、漁船模型、漁具や漁法の図解、漁師の衣類などを展示してある「なんばん記念館」を見てから、近藤さんの話を聞いた。

現在福一漁業では、鮪延縄漁船を4隻、海外旋網漁船を5隻保有している。前者は遠くケープタウン沖、オーストラリアのパース沖などで操業しており、1航海は1年以上に及ぶため、獲れた魚は別途運搬船で運び、乗組員は飛行機で交代している。後者はニューギニア沖などで操業し、一航海は3、40日になるという。

従業員280人のうち、およそ180人がこの海上部門に張り付いている。残りの100人が陸上部門で、これを現在強化中である。

というのも、200カイリ問題、漁業資源保護、クジラ愛護の国際世論、漁獲枠の取り決め、中国・台湾船などとの摩擦など、遠洋漁業をめぐる環境は極めて厳しいものがある。

たとえば資源保護ということでも、単一種の管理寄生でなく、全体としての生態系バランスをよく維持していくということが課題になっているという。

このような環境の下で、今まで通りの漁撈中心でやっていくには限界があり、どうしても陸上部門でいかに利益をあげていくかという戦いになっているとして、近藤さんは、次のように言われた。

「うちは漁業一筋で長くやってきましたが、今では老舗をいかに捨てるかを考えるようになっています。近藤家の代々の人々も、大きな変化の中を生き抜いていくために、いろいろな智恵を絞ってその変化に対応してきた。先々代は鰹一本釣りに新機軸を作り上げましたし、先代は延縄を始めている。自分の代になってからは、販売や流通にも力を入れている。そうしなければ生きていけないと思ったら、変わらざるを得ないと思います」

変化には予測できる変化と、予測できない変化がある。昔から漁業に携わる者にとっては、いかに天候や海流や岩礁など、航海のリスクを予測するかに心を砕いてきた。今日のように気象情報も海図も整備され、通信手段やGPSも発達した時代であっても、海難事故は跡を絶たない。海に生きるということは、それだけ大変なことなのである。

そのようなリスクを絶えず肌身に感じていた近藤家の人々にとっては、変化というリスクも出来うる限り予測可能なリスクと考え、それへの備えを怠らないという習性が身に付いているに違いない。

帰りに焼津の港を歩いていて、近藤さんの話がなんとなくわかるような気がした。

日にちや時間にもよるのだろうが、港に係留している船のほとんどが近海用の小さな船で、出来た時は東洋一といわれたという大きな魚市場もガランとしている。船が一年に一ぺん帰るかどうかというのでは、港が寂れていくのも仕方がないのかもしれない。

近藤さんは今、最も難しい決断を迫られているのかもしれなかった。